煙草
知っているか、と短い黒髪の男は呟いてゆっくりと煙草を燻らす。
「山羊というのはアテナイのアクロポリスに入れることが許されなかった獣だ。都市を象徴するオリーヴを害するとして。
だがアテナ像の姿には必ず胸当て鎧――アイギスがある。古の祭り、勝利の祝いのときにだけ供犠として殺され入れられることを許された獣、アイギスの皮はアテナの像にかけられる」
アテナの守護を受けられずともアテナの勝利のために殺される。だからそこ山羊座は最も忠誠心篤い聖闘士とされるのだ。
鋭い瞳をわずかに伏せ、男は長い黒髪の少年に己の星座が持つ意味を教えていく。
「俺は、おまえなら山羊座を継ぐにふさわしいと思うが、今生のアテナはおまえたち青銅聖闘士の誰にも山羊座を継がせることは望まないだろう。俺たちを生き返らせたのは戦力の低下をさけるという面もあるが、おまえたちに今以上の過酷な運命を負わせたくなかったのだろう」
「シュラ、では何故おれにエクスカリバーを譲ると? あのときは緊急時だったが、これからわざわざ稽古に通えというのは聖衣を継げというのと同じことではないのか?」
男は離れた場所に座り、同じように煙草を吸っていた男にちらりと目をやる。銀の髪を夜風にさらしていた男は小さく笑って立ち上がり、シュラに灰皿を差し出す。
「灰皿ほしいなら口で言えよ」
「ん、別におまえならわかるだろ」
短くなった煙草を消し、それに話の途中だ、とシュラは言って紫龍に目を向ける。
「戦いが困難になればなるほど、犠牲の血は必要とされる。おまえたちの世代には無用なものであることを願ってはいるが、エクスカリバーは敵を切り伏せるのと同時にアテナに捧げる血を流させるものなのだ」
少年はあふれそうになる涙をこらえた。守られるのではなく、戦士として戦い抜く道を自分に託そうとしてくれる先達。
「たとえアテナの心に背くことになっても、地上の平和と正義を守ろうとするなら力が必要なときもある。それが俺の考えだ」
納得したなら来月から稽古に来い、と言われて紫龍は来月と言わず明日からでも、と熱く答える。
「いや、こちらの仕事がたてこんでいるからな。来月からだ。おまえもその間体を休めるなりするといい」
苦笑するシュラの瞳が、近づいた煙草の光に透けて柔らかな彩(いろ)を見せる。
「ま、せーぜーがんばれや」
嘲るように短く笑って言う銀髪の男に、怒るかと思いきやシュラはふっと笑って取り出した新たな煙草を咥え、先をデスマスクの煙草の先に近づけて火を移す。
紫龍はようやく気付いた。この一見ふざけているような軽い口調がデスマスクなりのはげましのスタイルで、シュラにはそれが伝わっているのだと。
去って行く二人を見送り、紫龍も友のもとへと歩き出した。
「ちょっと妬けるぜ、おまえがあんなに熱く語るなんてな」
デスマスクの言葉にシュラが口許だけで笑う。
「今さらおまえに語る必要はないだろう」
長い付き合いだしな、とデスマスクも軽くうなずいて同じような笑みを返す。
闘技場から磨羯宮への裏道を軽い足取りで登ってきた二人は、宮のすぐ裏手まできて足を止めた。
「おまえ、まさか今日もこっちで飲むつもりか?」
「いや、ちょっと忘れ物」
昼間書いた書類か? と首を傾げるシュラに、デスマスクが手を伸ばした。
「……」
柔らかな抱擁に、シュラはぼんやりと相手の肩越しに夜空を見上げる。星の光が強すぎて気付かなかったが、今日は満月だ。
普段からよく訳のわからない言動でシュラをからかって面白がる男だ。今日もそんなところだろうと突拍子もない行動をさして驚かず受け止める。というか、いちいち動揺していたら身がもたない。
「おやすみ、デスマスク」
いい加減相手の鼓動と体温がわかるほどくっつかれて鬱陶しくなってきたシュラは、相手を面白がらせないよう表情を変えずに囁いて一歩身を引く。
「……おやすみ」
ゆっくりと背を滑って離れていく手と、自分を見つめる赤い瞳。
何もないのに動揺した。いや、蟹座が月の子供と呼ばれることを思い出し、男の瞳が月に似ているなどと自分が考えたことに動揺した。
「……デスマスク、煙草一本くれ。さっきのでなくなった」
帰ろうとした相手がふり返って笑う。
「なに、口さびしいワケ? ハグだけじゃなくキスもやろうか?」
「切り刻まれたいらしいな、貴様」
そんな風にいつも通りの軽口を叩いて、相手から煙草をもらう。
「ほら、火つけてやるよ」
「ん」
点る灯りと、煙の分だけ開く距離。
……これで十分だった。
おわり
■儺火つう様よりコメント■
「彼らの日常」がコンセプトのシリーズ第一弾。
友情の範囲を越えそうで越えない二人の世界(笑)を目指しましたがどうでしょうか。
思いついた順に行き当たりばったりで書いている、先の見えない作品ですので あたたかい目で見守ってやってください。
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